2014年



ーー−8/5−ーー 出張してテーブルを修理 

 
 
昨年の2月にダイニングテーブルをお納めしたお客様が、この5月の展示会に来て下さった。テーブルの具合は如何ですかと訊ねたら、実はちょっと問題が生じていると、小声で話された。甲板とそれを支える桟との間に、隙間ができているとの事だった。使用上は問題無いのだが、甲板を上から押すとギシギシ音がすると。それでは直しに伺いましょうとお伝えしたまま、二か月ほど経った。梅雨明け宣言が出た直後の7月下旬、メールをお送りして、その後如何ですかと問い合わせた。

 梅雨時は湿度が高いので、隙間が小さくなっているかと思ったのである。隙間が無ければ修理をしないと言うわけでは無いが、気候によってどのような挙動となるか、知りたかったのである。返事のメールには、何ら変化は無く、隙間は空いたままだと書かれていた。その部分の画像も添付されていた。確かに明瞭な隙間が空いていた。大きい所で、ハガキ三枚分の厚みのギャップだとの報告も受けた。

 軽トラに道具を積んで、修理に出掛けた。お宅は東京の世田谷にある。信州の田舎に住んでいる者にとって、都心の道路事情は不安だらけである。事前にパソコンを駆使して、入念にルートの検討をした。曲がり角の建物の外観まで頭に入れた。その成果で、全く問題無く、現地に到着した。

 お宅に入って、まずテーブルの状態を確認した。甲板を支える桟は二本あるが、一本だけ両端に隙間が生じていた。何故片方だけに問題が生じたのか、周囲の状況に理由は見当たらなかった。マンションなので、室内が乾燥しているかと思ったが、良く窓を開けて換気をしているので、特別に乾燥している事はないだろうとのお話だった。

 テーブルをひっくり返して、脚を抜いた。脚と甲板との接合は、「寄せ蟻」という構造である。桟に植えられたテーパーの付いたコマが、甲板側の掘り込みに嵌め込まれ、スライドするようになっている。甲板の膨張・収縮を吸収する仕組みである。脚を完全に抜き取ると、桟の上に並んだコマが露出する。それらのコマの中に、締め込みが緩くなっているものがあり、そのため隙間が空いてしまったのだ。それを直すため、コマのテーパー部に紙片を張り付けた。どれくらいの厚みの紙片を張るかは、ギャップの大きさに応じて計算される。接着剤が固まるのを待って、脚を甲板に入れ直した。隙間は全く無くなり、修理は成功のうちに終了した。

 この手の修理は初めてだった。原理的には手順が想定できたが、実際にそれで上手く行くかどうか、やってみなければ分からない部分と言うのはあるものだ。今回の修理で、貴重な実績が得られた。今後同様のトラブルが生じた場合、不安なく対処できるだろう。しかし、このようなトラブルは、これまでいくつも納入してきた同型のテーブルで、クレーム例が他に一つも無い。実際に隙間が空いてないのか、それとも隙間は空いているけれどユーザーが気付いてないのか、あるいは気付いていてもユーザーが修理の必要性を認めていないのか。いちいち確認した事は無いから、実情は不明である。

 製作工程に於いて、この部分は高い精度で加工してある。当然だが、組立て直後には完全にピッタリと納まっているのが常だ。その後隙間が空くと言うのは、材が収縮して嵌め合いがが緩くなるという現象に間違いない。材はもちろん十分に乾燥した物を使っている。問題となるコマは、あらかじめ加工した物を、工房の天井近くに吊るして、カラカラに乾燥させてある。それでも、今回のような事が起きる。木を扱うと言うのは、やはり難しいものである。

 我が家でも同じ構造のテーブルを使っている。もう十年以上経つが、隙間は全く無い。そのようにお話をしたら、お客様は「作った場所で使うというのが、理想的なんでしょうね」とおっしゃった。




ーーー8/12−−− 念願の塩見岳登山


 南アルプスの塩見岳を登りに行った。ぜひとも登りたいと思っていた山である。日本国内の3000メートル峰21座のうち、まだ登ったことが無い山は3つしかない。その内の一つが、この山だった。1983年に、当時勤めていた会社の山岳部で、登りに行ったことがあった。しかし天気が悪く、三伏峠に一泊しただけで引き返した。今回は、およそ30年ぶりの再挑戦となった。

 伊那谷から大鹿村に入り、鳥倉林道を上がって登山口に至る。30年前は、このアプローチ経路は無かった。当時は、塩川小屋までタクシーで入り、一日がかりで三伏峠まで上がった。この鳥倉口コースを辿れば、4時間ほどで三伏峠に到着する。

 三伏峠にテントを張り、翌日塩見岳を往復する。標高差は大きくないが、距離が長い。コースタイムは9時間ほどとなっている。塩見岳山頂の登りは、岩場だ。雨が降ったら、アタックは無理である。ここ数日、不安定な天候が続いていたので、登頂の可能性は五分五分くらいと予想された。

 二日目の朝、3時に起床してテントの外を見たら、満点の星だった。これは予想外の幸運だった。結局この日は天気が崩れなかった。夏雲によって視界が遮られることもあったが、ガスがかかることもなく、終始青空が見えた。夏山の世界を満喫した。

 山の上で出会った人は少なく、静かな山行であった。山頂には、女性二人のパーティーだけがいた。お互いに記念写真を撮りあった。展望する山々の名前がよく分からないと言うので、指で指して教えてあげた。この山頂からは、南アルプスの3000メートル峰が6座望まれる。そして、視界が良ければ富士山が綺麗な姿で見えるはずだが、あいにくその方角は雲に閉ざされていた。

 三日目は下山するのみ。それでも4時に起きて支度をした。天気は下り気味で、林道に降りた頃からパラパラと雨が落ちた。林道を30分ほど歩いて、駐車場に着いた。私の個人的な趣味としては、山行の最後の部分で林道を歩くのが好きである。あまり長いとうんざりするが、ほどほどなら楽しい。安全な道を、周囲の山や谷を見ながら歩き、登山の余韻にひたることができるからだ。

 ところで、山頂で会った二人。実は前日のテント場で一緒だった。彼女たちの方が先にテントを張っていた。夕方、しばしの間雑談を交わした。毎週のように山に登っているそうである。登山が楽しくて仕方ないという感じだった。それにしても、女性二人でテント山行とは、いささか驚いた。はっきり言って、学生のように若くは無い。普通なら小屋泊まりでお気軽な登山をする年齢であろう。外見はそんなふうだが、このご婦人たち、重荷を担いで上り詰める体力と気力に満ちているのだ。登山愛好家の層の厚みと広がりは、ますます加速しているように思われた。




ーーー8/19−−− 無駄な事?


 会社員だった頃の思い出話。出張から戻った翌日、執務室で報告書を書いていたら、向かいに座っている上司から「さっきから書き直したりして熱心に書いているものは何か?」と問われた。私が「出張報告書を書いてます」と答えると、上司はかなりインパクトがある事を言った。

 「そんなものに時間をかけてはいけない。報告書なんて、部長に見せ、その後部内を回覧するだけだ。誰も真面目に見やしない。誰も何の関心も払わないものを、時間をかけて書いても意味が無い。箇条書き程度で、ササッと書けば良いのだ。それを見て、より詳しい事を知りたくなった者がいれば、直接あなたに問い合わせて来るだろう」

 ちょっと強引な意見であり、細かく見れば行き届かない点も指摘されるだろう。しかしある意味で、鋭く的を得ている部分もある。それは、出張報告書に限らず、普段の生活の中でも当てはまる事だ。注目すべきは「誰も何の関心も払わないものに時間をかけても意味が無い」である。

 新入社員の中には、これがピッタリと当てはまるタイプの人が何人もいた。文書や資料を作製する際に、ちょっとした事を気にして何度も書き直しをするのである。その作業にいくら時間がかかっても、気にしない。しょせん新入社員にやらせる事だから、重要な仕事ではない。重要でない事は、急を要するものでもないから、のんびりやっても叱られない。しかし本当は、重要でない事に時間をかけてはいけないのだ。

 日常生活でも同じような事が言える。他人が何の関心も無いような事を気にして、時間や金をかけてしまうことがある。例えば服装。本人がどんなに着飾っても、、TPOを外したら、かけた努力は水泡に帰す。たとえば手紙。文章をひねり、気が利いたことを書こうとして、日が過ぎてタイミングを逃すよりは、当たり障りが無い内容で早く送った方が良い。たとえばもてなし。酒の銘柄を思案する前に、相手が酒を飲む人かどうかを確認するのが先である。たとえばスピーチ。あれこれ準備をして、長々と喋れば、たいていの場合評判を落とす。

 さて、いろいろな場面で役に立ちそうなこの教訓だが、モノ作りの場面、創造的なシーンではどうだろうか。

 「誰も何の関心も払わないものに時間をかけても意味が無い」は、やはり気に留めなければならない考え方だろう。しかし、人の関心を呼び起こすようなモノを作り出すのが創造である。それは、一朝一夕で実現できる事ではない。意味が無いような時間を積み重ねることも必要なのだ。誰も関心を持たないような石を磨いて玉に仕上げるのが、創造であり創作なのである。
 




ーーー8/26−−− 何に使えるか


 随分以前の話だが、映画館でアポロ13という映画を観た。全体的にとても感銘深い映画だったが、その中で特に私の気を引いたのが、宇宙船の中で炭酸ガスフィルターを修理するシーンだった。

 フィルターの容量が足りず、船内の炭酸ガスの濃度が上がり、危険な状態が近づいた。容量が大きなものに交換しようとしたが、メーカーが違うので接続部が合わない。丸を四角に繋ぐような作業を、即席に行わなければならない。宇宙船内にある様々な物、ビニールテープや、ポリ袋、プラスチック製品や紙類などを、ヒューストン管制センターの会議室に再現し、技術者が知恵を出し合う。考案された修理の方法を、無線で宇宙船へ連絡。ガラクタの寄せ集めのような形になったフィルターが動き始めると、船内の炭酸ガス濃度が少しずつ下がってきた。見ていて鳥肌が立つような感動を覚えた。

 ヒューストンの主任管制官の言葉が印象的だった。「大切なのは、何のために作られたかではなく、何に使えるかだ」

 ところで、昨年末に見た「ゼロ・グラビティ」。やはり宇宙ものの映画である。その中で、一人っきりになってしまった女性宇宙飛行士が、宇宙ステーションから宇宙船へ移るシーンがあった。その前に、彼女は小さな火災を消火器で消した。宇宙船の中にも消火器が備えられているのである。そして彼女は、手近にあった別の消火器を持って船内を移動した。さらなる火災に対処するためかと思ったら、そうでは無かった。彼女は宇宙空間へ出ると、消火器の栓を開け、噴出するガスの勢いで宙を移動したのである。こんなに上手く機転が利くものかと思った。しかし、ちょっと待てよと考えた。宇宙飛行士のマニュアルの中に、消火器は宇宙空間を移動する手段として使うことが出来ると書いてあるのではないか。かの国ならば、それくらいの配慮や準備は、十分に有り得る事だと思われた。

 道具や器具を、本来の目的以外に使う事を喜ぶのは、米国人の気質の一つではなかろうか。









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